「火村英生の推理」最終回妄想

 結構ハマって見ていたドラマ版「臨床犯罪学者 火村英生の推理」、最終回の個人的補完として、超!久々に二次創作なんてしてみました。
(続きからどうぞ)



「anchor」

 ダムのほとりの崖の上で、二人の男女が互いに銃を向け合っていた。
 火村英生と諸星沙奈江。犯罪学者として人を狩る者と、人を操り手駒とする者。
 諸星は仮面のような微笑を浮かべつつ、密かに高揚していた。
 この男が、手に入る。「人を殺してみたい」という願望を密かに秘めた、この男が。初めて会った時からわかった。彼は、自分と同等の闇を持っている。
 こちら側に来れば、おまえはもっと楽になる。解き放ってしまえ、己が身の内の獣を。つまらないこの世が少しでも楽しくなるなら――この身を捨てても構わない。
 目の前の男が、逡巡している。彼の闇が見え隠れしている。
 そして、男はつぶやいた。
「この犯罪は、美しくない」
 銃声が響いた。


 火村は銃を撃つふりをして、諸星に向かって駆け寄った。彼女の銃が空砲なのは、最初から見当がついていた。
 まずはアリス、そして火村自身。火村の足元を揺らがせておいて、最後に自分を殺させる。火村の手を自分の血で染めさせるというその事実で、諸星は火村を一生縛る気だ。
 だから、諸星は端から火村を撃つ気などない。それが証拠に、彼女は銃を撃つと同時に、崖に身を躍らせるべく跳んでいた。
 決断が遅れれば、間に合わなかったろう。火村は諸星にタックルし、間一髪で落下を防いだ。二人が投げ捨てた銃だけが、滝壺に消える。
「何故だ?」
 女が訊いた。
「何故おまえはそこに踏みとどまっている? こちら側へ来た方が、はるかに楽だろうに。今だって、おまえは、」
 苦しみ続けているというのに。
「確かに、その方が楽だろうな」
 男は答えた。
「だが、俺にはしっかり錨がついているんだ」
 小舟が流されて行かないように。
 様々な想いや、記憶や、悪夢が脳裏をよぎったあの一瞬。最後に思い浮かんだのは、いつも当たり前のように隣にいたあの笑顔だった。


 ――アリス。


 諸星にはわかるまい。昔から人を操り、自分の思い通りにしてきた彼女には。他人など、自分が使うゲームの駒にしか見えない者には。
 ……こんな危うい男に、10年以上も共にいてくれた人間一人の重さなど。
 こんな重い錨がついているのに、そうそう流されてやるわけには行かない。
 諸星の表情が、微妙に変わった。火村が、自分の思い通りになる気などないことを悟ったのだ。彼女は今までに生まれたことのない感情を自覚した。
 執着。
 他人にも自分自身にも執着したことのない、その必要すらなかった諸星が、手に入れられなかった男を目の前にして執着している。この、諸星沙奈江が!
 彼女は上着のポケットを探った。小さなカプセルが一つ。火村の隙を見て、諸星はカプセルを割ってその中身を飲み込んだ。
「おい、何をした!」
「私は既に致死量の3分の2の毒を飲んでいる。……その毒はまだ抜けていない」
 艶やかに微笑み、ダムの方を指差す。ダムの上から、猟銃らしきものをこちらに向けている人影が一つ。
「あれは足止めだ。当たっても構わないが、毒が回るまでおまえをここに留めておける」
「用意周到なことだな」
「火村英生。こうすれば、おまえをこちら側に落とすことはできなくとも、おまえに傷を残すことはできる」
 私が死んでも、それによって私はおまえの中で生き続ける。
「同時に、シャングリラは私の死と共に拡散する。私から逃れることはできない」
 言い終えると、諸星は意識を失った。
「冗談じゃない……!」
 火村は吐き捨てた。冗談じゃない。死なせてなどやるものか。諸星の為などではなく、俺自身の為に。俺が今の俺として、アリスたちの元に戻る為に。
 火村は諸星の体を抱え、身を低くして走り始めた。ダムの上から銃が撃たれる。一発、二発。腕に、脚に、痛みが走ったが、気にしている暇などなかった。射程距離から少しでも早く離れるべく、火村は急いだ。


 皆が駆けつけた時には、誰もが立ち去った後だった。
 アリスの絶叫が断崖にこだました――その数時間後。
 京都府警の鍋島警部の携帯が鳴った。
 電話に出た鍋島は思わず大声を出そうとして、踏みとどまった。電話の相手がこう言ったからだった。
「静かに。アリスにも周りの誰にも、相手が私だと気づかれないように。……鍋島警部、少しだけ出て来られますか?」


 指定された場所は病院だった。そこにいたのは昏睡状態の女と、怪我の手当をされている男。
「火村先生! ご無事でしたか!」
「何とか。鍋島さん、ここに来ることは誰にも?」
「コマチにも坂下にも、有栖川さんにも言ってませんよ」
 鍋島は動かない諸星を見た。
「生きているんですか?」
「生きています。死なせるわけには行かなかった」
 何とか逃げ延びた火村は、諸星の毒を吐かせるべく最大限に尽力したという。結構乱暴な手段も使ったようだが、それは緊急時ということで不問に付しておくことにする。
 目を覚ますことはなかったが、諸星は一命を取り留めた。……問題は、これから先である。
 火村は、信者たちに奪還されないよう、諸星が生きていることは極力伏せておくことを提案した。もちろん、搬送先やコースなども警察内の信用できる一握りの者だけにしか知らせない。内通者は見つかったが、それが彼一人だけとは限らない。
 鍋島と共に手筈を整えた後、火村は最後に付け加えた。
「ほとぼりが覚めるまで、私もこのまましばらく姿を消します」
「えっ!?」
「シャングリラの連中も、諸星が私にご執心だったことは知っている。また私の身近な者たちを危機に陥れるかも知れない。私が姿を隠すことは、彼らを守る手段です」
 火村はアリスが拉致された時の焦燥を思い出す。あんな思いは、二度と御免だ。
「どこへ行かれるおつもりです」
「残念ですが、それにはお答えできません。どこから秘密が漏れるかもわからない」
 鍋島はため息をついた。
「有栖川さんにも、何も言わずに行かはるんですか」
「ええ。しかし、必ず戻ります」
 そうだ。戻って来る為に、立ち去るのだ。
「戻って来たら殴られますよ、有栖川さんに」
 俺を一人にすな、というアリスの言葉を思い出す。アリス。おまえは嘆くだろう。泣くだろう。怒るだろう。置いて行かれたと、俺を恨むかも知れない。
「……仕方ありません。覚悟の上です」
 いつか戻って来たら、その拳でも感情でも、その全てを最大限に受け止めよう。その為に必ず帰って来る。おまえは俺の錨だから。錨だけを残して舟が出ることなど、ありえないだろう?
(……勝手な男だな、俺は)
 火村は心の中で自嘲した。
 去って行く火村の背を、鍋島は黙って見送った。


 かくして、名探偵は表舞台から退場した。
 その後、警察の内外でシャングリラ十字軍の関係者が何人も逮捕されたが、そこに火村の介入があったかどうかは不明である。


 時は流れる。無情な程に。
 有栖川有栖は、今や第二の自宅同然になっている火村の下宿に来ていた。
 シャングリラ十字軍の話も、滅多に聞かなくなった。諸星沙奈江も、火村英生も、生死不明のままだ。
 平穏な日々の中、アリスは自らの繭たる言葉を紡ぎ続けていた。それがアリスにできることの全てだった。
 アリスは自覚している。家主の時絵が心配だという口実があるとは言え、自分がここに入り浸っているのは、一縷の望みにすがっているのだと。蜘蛛の糸のような、かすかな望みに。
 そんな時。
 時絵の手から、茶碗が滑り落ちた。間一髪でキャッチする。割れずに済んだ。セーフ。
 と。思う間もなく、聞き慣れた足音がアリスの耳に入って来た。ダボッとしたコートのシルエット、癖のある髪。
 ――夢、やないよな?
 待ち焦がれた者がそこにいた。
「ただいま」
 バリトンの声が響く。
 何か言ってやりたかった。一発殴ってやりたかった。
 ――何を今頃しゃあしゃあ帰って来よったんや。
 ――俺がどれだけ心配したと思うとんねん。
 ――あんなに言ったのに、俺を一人にしよって。
 だが、そんな言葉より何より、アリスの口から真っ先に出たのはこの一言だった。


「おかえり」


 ただいま、アリス。俺を繋ぎ止めるもの。何よりも重い、俺の錨。


<完>